徒然なるままな想い書き

日々の『思わぬ発見、気付き』をつれづれに。

足しすぎたら引いてみよう!実生活での引き算思考のススメ

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機能、物の足し算って良い?

はい、今回のテーマはタイトルの通りです。引き算思考のススメです。

 

昨今は技術がイロイロと進化してきていて、1つのモノがより便利なものとなるため、より多くの機能を持つようになってきています。例えば、スマホです。今やスマホで電話、メール、写真、動画、何でもありです。そして、一方で、物の絶対量も増えています。例えば、家庭用品です。足りないものは買い足せば良い、買っておけば後で使うだろう、そんな感じです。

 

これらに共通していることは、機能、モノは多ければ多いほど良い、なぜならその分様々なニーズに対応できるから、ということです。ニーズの分だけ機能、モノを「足して」いけば、必ず良いものになるはず、というわけです。

 

足し算には限界がある

でも、この足し算の考えには限界があります。それはたいてい「人」が原因です。例えば、先程のスマホ。スマホは様々な人のニーズの「足し算」からなるモノですが、一人の人間からしてみると、余計な「足し算」でしかありません。メールだけしか使わない人にとって、音楽プレイヤーの機能は余計なものでしかありません。

 

また、人は物事を忘れます。どんだけ豊かにモノを買い足したとしても、それが使われないでいると、いつの間にかその存在を忘れてしまいます。そのせいで、「あれ買っといたんやけど、どこやったかな?」なんて日常茶飯事です。機能やモノはこれからもどんどん増えていくでしょう。しかし、私たちの脳みその記憶量はサイボーグにならない限り、増えはしないのです。

 

足し算しすぎたら、引き算をすべし

そこで、引き算の勧めです。客観的には「足し算」がベストです。それぞれをの良い所を足すことによって、イロイロなことが可能になるからです。一方、主観的には「引き算」が必要です。主観的に見れば、足された「余計なこと」は「いらないこと」と等価です。

 

そもそも、人間は余計なことを無意識的に「引き算」することのプロです。例えば、先ほど出た「忘れる」。これは、記憶を「足し算」していく中で、自分にとって余計な記憶を「引き算」する行為です。また、「運動スキル」もそうです。人間は、運動スキルを身につけるため、運動に必要な動きの自由度を「足し算」していきますが、最終的には余計な体の動きを「引き算」し、より自由度の少ない、しなやかな動きができるようになります。

 

こう考えてみると、人間は足し算を一定量行った後は、引き算を行い、自分にとって必要、最適なものだけを残すプロセスを踏んでいます。なので、人間の使う機能、モノも、同様のプロセスを踏んでいます。最近読んだ本で言うところの、「持続的進化」と「革新的進化」です。「持続的進化」は既存に対して、機能、モノを「足し算」して進化を図っていくもの。「革新的進化」は「足し算」で考えず、ある機能、モノだけに絞って「引き算」で考えることによって、それに合うように進化させるものと言えます。つまり、機能、モノにおいても人間と同様に、より良いものを目指すためには、「足し算」の後に「引き算」が必要なのです。

 

今後求められる引き算の必要性

日本は長年、ものづくりにおいて「足し算」は得意であったように思えます。今でも4Kなどはテレビという既存のものに対する機能の「足し算」であり、その点では力があると言えます。ですが、先ほど述べたように「足し算」の後には、「引き算」が必要となってきます。より「洗練されたモノ」とでも言えばよいでしょうか?昨今もてはやされている「革新的」と言っているものです。「もったいない」という言葉が示すように、日本は特に、機能やモノを捨てる、省くというのは気が引ける行為に感じる人が多いはずです。ですが、今はもう「足し算」のフェーズが終わり、「引き算」の必要性が出てきているように思えます。今後は、いかに「もったいない」を抑え、「引き算」で考えられるかが勝負であるように思えます。

 

まとめ

今回は、機能やモノの足し算に疑問を持ち、足し算から引き算に至る流れについて書いてみました。そして、今後は「足し算」よりも「引き算」が必要となることを述べてみました。機能やモノが溢れかえる中では、自分にとって必要なもののみを選択し、他のモノは「引き算」する勇気を持つ必要があります。自分に手に負えないほどに「足し算」してしまう前に、自ら「引き算」をしちゃいましょう!

 

ではでは。