徒然なるままな想い書き

日々の『思わぬ発見、気付き』をつれづれに。

「卒業」の意義とは何なのかについて考えてみた。

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卒業

今週のお題「卒業」です。かくいう私も今年で大学院を卒業し、4月から社会人となります。そこで、卒業について思うことをつらつらと書いてみます。

 

私は学業という面では、小学校、中学校、高校、大学、予備校、大学院と、今までに6回卒業を経験してきました。

 

 

小学校・中学校:保護者のためのもの

小学校、中学校までは義務教育ということもあって、卒業は「保護者のためのもの」でした。「卒業おめでとうございます」と言われても何だかピンと来ませんでしたし、校長先生らの挨拶はどちらかと言うと学生に対してではなく、「学生をここまで育てた保護者」に向けられたものに感じていました。「あなたのお子さんはここまで成長しました」とでも言いたいかのように。実際今の年齢になって小学生、中学生を見ていると、実際にそのように考えてしまうのは分かるのですが、当時は「自分が卒業したのに」ということで少し不満でした。とは言え、実際にはよっぽど変なことはしない限り義務教育での卒業は自分の力でなくともでき、家庭で育ててもらったことが一番の要因となるので、保護者が一番感謝すべき対象であるのかもしれません。

 

 

 

 

高校・予備校・大学・大学院:進路のために一応必要なもの 

義務教育はこんな感じですが、高校からは少し卒業の意味合いが変わってきました。卒業は「進路のために一応必要なもの」になりました。小学校、中学校までは、次は〇〇の学校に行く、〇〇をする、といったように既定のようなレールが敷いてあって、卒業はそれに進むための通過点でした。しかし、高校からはそうではなく、〇〇の大学に行けるかな?今後は〇〇をすべきか?といったように、既定のレールではなく、自分が敷くレールについて考えながら進むようになります。そのため、そのレールを敷くことが重要となるため、卒業自体に意味はなくなってきます。あくまで必要な証明書となります。卒業したからといって、具体的に次は〇〇ができるということでもありません。あくまで、卒業によって自分にはこんな能力があると周りから認められるだけです。これらのことから、卒業は自分の進路のために一応しておかなければならないものと感じてしまうのです。

 

 

 

先日、大学院の卒業式がありましたが、まさにそのように感じていました。既に進路となる就職先は決まっていましたし、就職先には卒業証明書はいるとはいえ、卒業に対してはそれほど大きいことのように感じられませんでした。まさに一応必要なものです。それよりも、大学によって身についた力をどう活かしていこうか、そういった考えの方が強くあります。

 

 

 

卒業の意味 

このように考えてみると、卒業の意味合いは、年齢を重ねるにつれ、

 

 

小学校、中学校:保護者のための、子どもの成長の証

高校・予備校:大学という進路に必要な入場券

大学・大学院:キャリアプランにおける、自分の能力を示すために必要なもの

 

 

と変わっていきます。年齢を重ねるに連れ、卒業の矛先が保護者から自分にシフトし、意義が段々と卒業自体よりも学業によって身についた力の方にシフトしていきます。そもそも、卒業は就学者のためであるし、学業が身についたことを示すものであるため、このシフトは当たり前ですが、初めの方はなぜかそうではありません。これは、教育現場では就学者である学生よりも保護者の顔色を気にし、学業が身についた上で具体的なキャリアプランはどうこうしようという話の前に卒業自体ができるかどうかを気にしていることが原因です。学生が本当の意味で成長するためにも、この問題を解決するためには教育者、学生双方に意識改革が必要なのではないかと思います。正直、卒業自体に大きな意味はないです。卒業で身についた能力をどう活かしていくかが大事であり、教育もそれを念頭にした上で行うべきであるはずです。

 

 

 

まとめ

今回は今週のお題が「卒業」ということで、私が経験した卒業の意味合いを考え、そこから卒業のあるべき姿について考えてみました。何だかんだ卒業について言いましたが、卒業したということは、その学業で目指した能力が学生に対して身についた証です。これを手にしたということはおめでたいことです。この証を胸に、身についた能力を社会に役立てていきましょう!

 

 

 

ではでは。